ODAは国益指向であるべき


 


ODAは誰のためにあるのか 日本の国益、それとも世界の人々?(毎日新聞)

ODA(政府開発援助)が色々と叩かれているが、戦略眼をもって運用すれば、我が国の国益に役立つ。何故なら、戦争は外交の一形態であり、外交の延長線であるという認識と同様、外交は戦争の序曲であり、外交を巧みに行う事により戦争を回避できるし、戦争に至っても有利に戦局を進めることができる。

上記の「外交を巧みに行う事」は、相手に譲歩したり、相手の要求に屈したり、主権を発動するのを躊躇することではなく、戦争に至らないように、或いは戦争に至った場合も味方が多いように、我が国を積極的に支援する国のみならず、消極的に支援する国も増やす、という意味においてである。つまり戦争は外交の一形態というだけではなく、外交は戦争の一形態という見方もできる、という意味である。

リンク先の記事でインタビューを受けている大学の先生(立命館アジア太平洋大教授(開発経済学専門))は、上記とは違う価値観をお持ちのようである。

以下に、上記有料記事の無料部分の大学の先生の発言を一部引用する。

 ◆あらゆる支援は、支援を受ける側のためになされるべきです。「支援する側のための行為」であれば、それは支援とは呼べません。開発協力は、日本の国益のためではなく、世界で支援を必要とする人のために行われるべきです。

 しかし、今回の開発協力大綱の改定では、「支援する側」の利益が強く打ち出されています。端的に表れているのは、前回2015年に改定された前の大綱で初めて用いられた「国益」という言葉です。

 

どうであろうか、あたかも「国益」がODAとは相反するものであるかのような議論が誘導されているように見受けられる。

上記の記事は、「新しい開発協力大綱」が発表されたことを受けた記事のようであり、「新しい開発協力大綱」を批判、牽制するかのような位置づけにあるように、無料部分からは読み取れる(チャイナのスパイと外国から疑われている報道機関を支援したくないので、有料部分は読んでいません)。

開発協力は、日本の国益のためではなく、世界で支援を必要とする人のために行われるべきです。

確かに、政府開発援助は世界の人々を支援するために行うものであるだろうが、原資は我が国の国民の血税である。国民の血税を使う以上、我が国の国益に沿った使い方が求められるのは当然である。この先生は、政府開発援助は我が国の国益のために行うべきではない、と考えているようだが、納税者である国民に対する政府の説明責任をどう考えているのであろうか? 

ODAの他に、複数の国が共同出資して途上国や戦災復興国の支援を行う国際開発金融機関という仕組みがあり、世界銀行とかアジア開発銀行がそれにあたる。我が国は世界銀行にもアジア開発銀行にも、相当額の資金を提供している。これらの国際開発金融機関に我が国の国策が反映されることはほとんどないので、既に我が国は国策に紐づかない途上国支援や戦災復興国支援に多額の資金を費やしている。(アジア開発銀行は、我が国が拒否権を持つので、全く紐づかないとは言えないが、拒否権というものは頻繁に行使できるものではないので、実質、我が国の国益が紐づかないと言える)。

国際開発金融機関への多額の出資を行うと同時に、我が国独自の途上国支援を外務省や国際協力機構が行っているが、我が国の省庁や国の機関も「国益」を優先した支援を行ってはならないと、この先生は考えているのだろうか?

なぜ、我が国はそこまで国益を無視して、我が身を削って、途上国に奉仕しなければならないのか?

我が国は他の欧米先進国と異なり、いわゆる「植民地からの収奪」を行わなかった唯一の先進国(*)であり、植民地からの収奪や圧政といった負の遺産とは無縁である。台湾や朝鮮半島など併合した地域はあるが、それらの併合した地域や独立を支援した満州国に対しては収奪どころか、我が国の資金を大量に投じて、我が国を越える規模の産業開発、インフラ開発、学校教育の普及拡大、医療衛生の改善などを行っている。併合した地域や近隣友好国に対し、我が国の予算を使って莫大な援助を行い経済と社会を発展させた訳であり、植民地支配による収奪や圧政とは、そもそも無縁である。

*:カナダは植民地からの収奪を行っていないような気がするが、そもそも植民地に入植した白人が原住民族を駆逐した上で成立した国であり、我が国と同列に扱うのは無理がある。

大東亜戦争期の占領地域に対しても、帝国陸海軍が駆逐した植民地支配者が仮にそれらの国に戻ってきた場合に備えて、国軍の育成や武装の提供、並びに戦術指導などを行っている。また、植民地支配者に頼らず国を運営できるように、民生面での支援も行っている。

東南アジア、南アジア諸国が1940年代後半以降に相次いで独立したのは、大東亜戦争中の我が国の支援により独立闘争を行う軍組織と戦術、そして独立後に国を運営する能力を身に着けていたためである。

さらに、アジア諸国の独立の契機としては、インドの大英帝国からの独立が挙げられる。インドにとって悲願であった独立が成就した発端は、我が国が支援したインド国民軍(INA)により難しい戦局の中で断固挙行された独立戦争(**)である。独立戦争に参加したインド国民軍の兵士たちに、植民地支配者として舞い戻ってきた大英帝国が下した苛烈な処分がインドの全国民一斉蜂起の引き金を引き、インド全土の反乱に対抗できなくなった大英帝国が現在のインドとその周辺地域を諦めたことが、インドの独立を実現した。いうまでもなく、アジアの植民地支配からの解放において、インドの独立は重要なイベントである。

**:日本ではインパール作戦として知られており、大失敗に終わったと扱われている。日本のインド独立への貢献を覆い隠すために、大失敗が喧伝されているのだろうと推察する。

上記が大日本帝国とアジア諸国との関りであるが、いわば、植民地とされたアジアの人々の独立を、我々の父親たちの血と肉と鉄で支援したともいえる。

しかし、我が国では自虐史観が蔓延り、戦後世代は、日本は悪いことをした、と教えられて育っている。上記の歴史から考えると、自虐史観などあり得ない、とんでもない見方であるといえるが、多くの日本人は、日本は戦争中に悪いことをしたと、未だに考えているのだろう。そして未だに、そもそも持つ必要すらない贖罪意識を無意識に受け入れているともいえる。

この立命館アジア太平洋大学の先生も、同じ発想なのであろう。日本は贖罪するべき国なので、ODAの実施に国益を考えてはならず、途上国のことをのみ考えれば良い。そう思っているように思える。

大学教授というその社会の英知の頂点ともいえる方の発想が、自虐史観というわけである。この状況は、我が国に恐ろしい災厄をもたらしている。

自虐史観に染められていない世代が国の舵取りを行っている間は、きちんとした国家観(国体ともいえる)により、国益重視のODAが行なわれていたと思われる。自虐史観に染まった世代が力をもってからは、国益重視の発想が消え去り、海外に奉仕する日本になってしまったのではないか。莫大なODAを使って、東南アジア諸国の発展を支援し、経済発展のためのインフラ整備を行ってきたのにも関わらず、インドネシアなど、我が国よりもチャイナにおもねる国々がでてきているのも、自虐史観に基づいた稚拙な外交のためである、ともいえる。

我が国が主権の行使をためらうのも、上記の誤った自虐史観がその下地にあるのは疑いないだろう。日本が戦争を起こしたという考えにあるため、主権行使をためらうのである。

実際は日本は戦争に追い込まれたのであり、日本が戦争を欲した訳ではない。さらに、大東亜戦争以前の我が国が主権の行使を躊躇したためにチャイナから舐められ、その結果として我が国の国民を標的としたテロや残忍な虐殺強〇事件が頻発し、それらのテロや事件が47事変への流れを生み出していったたことも、忘れてはならない。適切な時期の適切な主権行使が、長期的な視野で見ると最も低い犠牲とコストで我が国を守るのである。

上記を鑑みると、我が国の大学教授が自虐史観に染まっているのは由々しき事態である。

言論の自由があるとはいえ、それぞれの国にはそれぞれの文化に応じた価値観が尊重されるべきである。言論の自由をもって、我が国を我が国たらしめている価値観を毀損し、我が国を堕落した無能な国に貶めるような価値観を広めるような行為は、本来は許されてはならない。つまり、言論の自由をもって、我が国の価値観や文化を攻撃することは許されない。これは国家の尊厳の維持という意味で、ごくごくの当たり前のことである。

自虐史観に染まり、国益を否定する方は、我が国の大学教授として相応しいだろうか?

逆に、我が国の大学には、そういった考えの方が多いように見受けられる。

これは我が国の危機ではないのか?

同様に、言論の自由を盾に、我が国の尊厳を毀損して憚らないような考え方の蔓延も、我が国の危機と言えるだろう。

危急の窮地にある我が国、自虐史観を教育することは、今すぐやめるべきである。

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